2008年09月11日

生の風景とは

風景に関するレポート

はじめに

 西欧で「風景」という概念が誕生したのは、17、18世紀のことだという1。それは風景画の誕生に端を発する。つまり、風景は、極めて近代的な概念であり、非常に新しいものであると言える。大室幹雄は、近代日本風景批評史として、『月瀬幻影』(中央公論新社, 2002)『志賀重昴『日本風景論』精読』(岩波書店, 2003)、『ふくろうと蝸牛 柳田国男の響き合う風景』(筑摩書房, 2004)の3冊を著している。それ以前の著作として、古代中国の都市を描いた『遊蕩都市』などがある。『月瀬幻影』は、江戸末期の山水的風景享受について、『志賀重昴『日本風景論』精読』、『ふくろうと蝸牛 柳田国男の響き合う風景』は、明治期のひと世代異なる2人の風景論者のそれぞれ異なる風景の享受について書かれている。本稿では、日本における現代的な風景享受とは全く違う形である江戸末期の山水的風景享受を描いた『月瀬幻影』と日本の風景論の嚆矢と言われる『日本風景論』を新たに位置づけた『志賀重昴『日本風景論』精読』を対象とする。

月瀬幻影

 『月瀬幻影』では、漢詩文を愛し山水画を好んだ江戸末期の地方の富裕階級達、ここでは現在の静岡県、藤枝詩壇を対象として、彼らが、風景をどのように発見し、享受し鑑賞したのかについて述べられている。風景をみつめ、漢詩を読み、散文を書くかれらの姿勢は一見現代的な風景意識をすでにもちあわせているが、大室は「漢詩文の教養、中国古典にかかる知識の共有」2を基にした「引喩の文学」3であったと指摘する。同様の現象は彼らの山水画でも見られる。大室は、
画かれている記号の群は、山水も建物も人物も動物も、どれひとつとして日本には存在しないけれども、それら集合された記号たちは個々にその意味を発散しつつ、画面を統括する背景画法(シーノグラフィ)の文法に従って配置され、総体として意味されるものを形成する。そこに出現するものが現実の対応物を欠如していても、見るもの前において世界は完成されている。4
とし、作者と読者の背景の共有によって成立する引喩の詩学のあり方を的確に指摘している。
 しかしながら、これらのきわめてブッキッシュな風景享受は、常民とはいえ、地方の豪農富商達、もしくは武士階級のような歴史と教養を共有できる範囲でのみ成立するものであったという。大室は、江戸時代の旅を業務の旅と遊興の旅の2者に分け、諸候やその家臣団による参勤交代の旅を第一類第一種、商用や公事のための商人や農民の出張を第一類第二種、士などによる武者修行型の旅を第二類第二種、衆庶平民の物見遊山型の旅を第二類第二種と分類し、それらが「山水の勝跡」への関心があるかないかによって全く違った旅であることを指摘した5。つまり『東海道中膝栗毛』において道中の風景の記述が全くなく、作中の2人も全く風景に関心を示さないのに、多数の読者を得たという事実が、庶民の遊興の旅には風景への興味関心が欠如しているのだという。
 結果、江戸末期の日本においては、風景を形作り、日常その中に生きていると思われる多くの農民や商人たちは、そのような風景を風景として認識することなくすごしていたことが明らかになる。やはりそこでは、旅行者としての他者の視線によって風景が発見されているのである。そして、その他者の視線を得るための道具立てが、ここでは古代中国の歴史、文学、人文画なのであり、そのような教養を共有できる者の間で交わされる知的ゲームとして、風景が享受されていたのである。そこでは、「文学が生の現実に優先する」6のである。

志賀重昴『日本風景論』精読

 志賀は国粋保存主義を掲げた初期ナショナリストであり、この『日本風景論』(1894)は、日本の風景がいかに素晴らしいか、それが世界に類を見ない優れたものであることを描いた風景論の古典である。日本の風景を自然科学的観点から解明し、地形学などの知識を取り入れ、日本には気候、海流の多変多様なる事、日本には水蒸気の多量なる事、日本には火山岩の多々なる事、日本には流氷の浸食激烈なる事の4項によって、日本の風景が「洵美」なることを示そうとした。
 大室は、その『日本風景論』を志賀と『日本風景論』に即して読むために、本書の前半を、同時代人達の『日本風景論』書評の読解から始めている。内村鑑三は、志賀の国威高揚、愛国心の高揚を意図したような姿勢に対してPatriotic Bias と批判していた。日清戦争中のこの時期、日本が連戦連勝の最中、その風景を称揚し、それによって日本国民が優れた民族であると主張するこの著作はかなりの支持者を得ていたようである。しかしそこで日本風景の優秀性を天皇、皇室に接続する言説がほとんどないことも大室は指摘している。また、大室は、日本人の自国文化を外国人に指摘されて初めて自分たちも承認納得する傾向が見られるとし、
こと風景に関しては、日本風景が優秀なのは外人がそういって保証しているから優秀なのだ、という筆法(レトリック)もしくは論法(ロジック)のいいだしっぺ、少なくともその一人は歴然と志賀重昂にほかならなかった。(中略)率直にいって、日本の江山が絶対的に「洵美」であるから、日本人はわが郷土を思うのだという立論は、論理的にこれだけですでに完結している。(中略)それを書かないではいられない志賀の筆法は、彼の書くことの意識において、その論法に外人の評価をひきあいにしないてはいられない脆さが潜んでいたのだとしかいいようがない。7
と言い切っている。
 志賀はまた、この『日本風景論』を漢文くずれの散文で書いている。大室は『日本風景論』に、その表現としての漢文だけでなく、江戸末期の山水癖の残滓、つまりブッキッシュな風景享受の名残であることを指摘している。志賀は、日本風景の「洵美」の内実を、瀟酒、美、跌宕の3つに分類してみせたが、その3つの概念のための例示は、極めて、山水癖の江戸末期の文人墨客と変わらないものであった。つまり、志賀の風景享受の方法は、江戸後期の学者詩人達の山水観照の作法とほとんど差異がなく、「風景論の斬新な外装につつまれつつ、その内部には旧い、ほとんど不変の核心が生きて脈動していた」8に過ぎず、志賀にとっては「江戸後期の漢詩文こそ現代文学」9で未だあった。

おわりに

 ここまで見てきたように、江戸後期には、旅行が一般的となり、風景を愛でる習慣を持つ文人達もいたが、それは、平民にとっての物見遊山の旅においては、風景が鑑賞されていた訳ではなく、文人達の風景享受はあくまで、歴史と教養を共有する人間の間でのことば遊びであった。また、日本における客気的な風景論である『日本風景論』も、江戸後期の学者詩人達のブッキッシュな風景享受を基にしたものであり、日本ラインのように外国に日本を見立てる視点が潜在しており、それが日本の風景が絶対的に洵美であることを示そうとした志賀の意図自体が内部崩壊していることも明らかにした。
 『日本風景論』が書かれた4年後、1898年には、柄谷が近代的な内向的青年によって風景が発見されたとした10、国木田独歩『武蔵野』が発表されている。『日本風景論』のブッキッシュな風景享受から、『武蔵野』の自我に目覚めた個人によって発見される他者化された風景意識までそれほど時間の差はない。しかし、そこには、風景に対する大きな意識の違いがある。『日本風景論』における風景が、あくまで中世的なものであり、江戸後期の文人達の風景を「文学が生の現実に優先する」と喝破した大室の読解は極めて重要な仕事であると指摘して、この小論の結とする。

1 内田芳明『風景とは何か』, 朝日新聞社,1992
2 大室幹雄(2002), 72
3 前掲書, 73
4 前掲書, 72
5 前掲書, 174
6 前掲書, 74
7 大室幹雄(2003), 40-41
8 前掲書, 266
9 前掲書, 267
10 柄谷行人『日本近代文学の起源』,講談社,1980
posted by routine-worker at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | city | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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